平成28年3月23日
言葉遣い、権利、個人主義の暴走に危機感を
「保育園落ちた、日本死ね」
「保育園落ちた、日本死ね」と記した匿名のブログが待機児童問題に火をつけて話題となっている。待機児童の問題は、解決されなければならないことは言うまでもないが、正論であれば、どのような言葉で表現しようとも関係ないようだ。朝日新聞は社説で、このブログが「待機児童問題の深刻さとともに、為政者の無理解を浮き彫りにする事態となっている」と評価し、自社の慰安婦誤報問題は棚に上げて国連の女子差別撤廃委員会の勧告まで持ち出して、政府に対し現実を直視するように主張している。他の新聞社も「ブログの『日本死ね』は魂の叫び」(毎日新聞)、「ブログの表現を巡り、感情的な議論になってはいけない」(日本経済新聞)など多くは同様の論調である。僅かに産経新聞において曽野綾子氏が「このブログ文章の薄汚さ、客観性のなさ」と、その言葉遣いを非難しているが、どうやらこちらは少数派らしい。
このような汚い言葉で罵る母親に育てられる子供が心配だが、保育園に落ちた怒りをどう表現するかは本人の自由の範囲内であろう。問題なのは、ブログを書いた本人ではなく、ネット上の匿名の汚い言葉を持ち上げ、それに共感する社会であり、報道である。また、これをもとに政権を批判する野党は日本の政治家として「日本死ね」の言葉に何も感じないのであろうか。このブログに無批判に共感する者は、政策の不満に対して激しく罵る言葉に気が晴れるのだろうが、その精神構造はヘイトスピーチと何ら変わらない。「ここまで書かなければ政府には取りあげられない」という意見があるが、「日本死ね」の言葉は、少なくとも日本を愛する者、日本語を大切にしている者に対しては不快感を与えるであろう。社会に対して何の不満もない人はいないだろうし、政策の不備に声を上げることは必要だが、他国に比べれば明らかに社会保障が整った日本において国民が不満の一つ一つに罵声を浴びせる社会が健全だとは思わない。特に教育的な観点からは、現在の増加するネット社会の言葉の乱れ・言葉の暴力に危機感を持っており、このような言葉遣いが無批判に支持されていることに驚きを禁じ得ない。
「女性にとって大切なことは子供を二人以上産むこと」
一方、大阪市立中学校の校長が全校集会で「女性にとって最も大切なことは子供を二人以上産むこと、キャリアを積む以上に価値がある」と語ったことが「特定の価値観の押し付け」として問題となっている。この中学校の校長は、少子化が進めば日本がなくなってしまうことを説明する一方で、子供を産めない、結婚しない人に対しては里親などで子育てに関わることができること、男子に対しては夫婦で子育てをすること、など生徒全体へ配慮して語っている。総じて、「人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返し」とし、子育ての価値を子供たちに伝えたかったと述べている。これに対して、市教育委員会は「校長の立場にありながら、個人的な意見を表明」し、「様々な生き方がある中で、女性に特定の価値観を押し付けている」と問題視し、処分を検討しているという。校長の話は確かに個人的な見解の一面もあり、個々の生き方は尊重されなければならないが、少子化は国をあげての喫緊の課題であり、子育ての大切さを説いたことが「特定の価値観の押し付け」とまでは言えないのではないか。先の待機児童のブログ問題とは別の事案であり、産んでも保育園がないじゃないか、という意見はあるだろうが、この二つの出来事を併せて考えると何か釈然としないものがある。
「私」が「公」を駆逐する
今回の二つの出来事は、一方は子供を保育園に預けて働くという立場、一方は仕事よりも子育てをという立場であり、無論、経済的な事情に左右されることであるので、どちらが正しいというものではないが、少なくとも少子化問題に関連する点については同じだろう。しかし、前者は個人的な思い(私)を匿名で言葉汚く日本(公)を罵り、後者は日本や子供たち(公)のために、言葉を選び丁寧に語った。その結果は、前者が自分たちの恨みを代弁したかのように社会から支持され、後者は個々の生き方を無視したとして批判の対象となる。こうした「私」が「公」を駆逐し、権利に対する過激な主張や個人主義が蔓延するような社会の風潮に違和感を覚えるのである。行き過ぎた個人主義は言葉遣いの乱れと併せて、教育に携わる者であれば、憂慮すべき問題として看過してはならない。
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