令和2年11月25日
9月入学について
ひと先ずは導入が見送られた「9月入学・始業」。と思いきや、教育再生実行会議で取り上げられることになった。「私には『性懲りもなく』としか思えない」とぼやくのは国立教育政策研究所名誉所員の菱村幸彦氏。我々も氏に倣って、福岡の地から多少ぼやいてみる。
9月入学は大学の都合
本紙五月号の論点整理で、「9月入学・始業」は利点少なく、課題の多さ・複雑さが明らかになった。菱村氏も臨時教育審議会当時を振り返り、「文部省、大蔵省、自治省をはじめ、PTA団体、私学団体、校長会などほとんどが9月入学に反対した。」と述懐、「これは今も変わるまい。」と論ずる(週刊教育資料8月24日号)。今回の導入見送りは当然の帰結なのである。
9月入学論は、多く大学の都合だ。「世界の大勢は秋期入学だから、それに合わせれば、諸外国との教員・学生の交流や帰国子女の受入れの円滑化が図られ、国際化が促進される」とするのが9月入学推進論者の主張。「しかし、すでに07年の省令改正で、大学の学年の始期・終期の決定は学長に委ねられており、各大学は自主的に9月入学を導入できる。国際化の隘路とはなっていない」という菱村氏の説明でほぼ片が付く。
半年の空白に奉仕活動を
一方、「大学秋入学を検討するなら、初等中等教育の改革にも広く連動するように仕組むべき」と語るのは中村学園大学の占部賢志教授。『致知』七月号に寄せた「春入学は譲れない 秋入学は大学に限る」という論考で、「私の先輩で福岡県の教育正常化に尽力された、元福岡県立高校長の志賀建一郎先生が、平成の初めの頃に三月高校卒業と大学秋入学のあいだの半年の空白に公共の奉仕活動の場を設け、その修養体験を入学条件の一つとして義務づけるという画期的な教育改革プランを発表された」と指摘する。
このプランが未だ「画期的」なのは、「奉仕活動」を高大接続の視点から捉え直すこ
とも可能だからだ。
現在SDGs等の「総合的な探究の時間」で取り組んでいる内容を、この半年間に反映させる。大学側が入学予定者に「自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現する」よう課し、レポート等で提出させる。その評価を単位認定の材料として扱う、のはどうだろう。
働き方改革の観点からも
生徒は既に高校を卒業しているため、この空白期間の指導は、「働き方改革」の観点から高校の教員ではなく、外部指導員が当たる。この外部指導員の運営は、シルバー人材の活用等、雇用対策の一環とする。
スクラップ・アンド・ビルドが進まず、授業時数の確保に追われている高校現場にとって、「総合的な探究の時間」は日々脅威だ。「また新たな黒船がやってきた。開国を迫る総探の趣旨は分かった。だが新たな取組がビルド・アンド・ビルドを助長する。総探の取扱いは本来、大学の領域では?」―これが現場の声だ。
9月入学は文化破壊
明治期に9月入学の時期があった、という声も聞く。結局4月入学が日本人の国民性に受け入れられた下地は、古来桜をこよなく愛する文化が連綿と続いているからだ。
九州大学の施光恒教授は、桜と卒入学式との結び付きを「世代を超え国民を結び付ける大切な記憶の絆、イメージの絆の一つ」であり、「国民の絆は、このような一見、些細な事柄、日常の事柄の積み重ねでできている」と強調する。
9月入学は「日本独自の教育文化や社会制度の秩序を壊しかねない」と断じる占部教授は、「日本の自然の摂理に背く教育制度など、さっさと引っ込めるべき」とにべもない。桜の持つ華やかさとはかなさが、出会いと別れの場面を演出する。桜を背にした風景は、いつしか平成世代の記憶の彼方にたゆたい、令和世代で死滅する。「9月入学」は文化破壊である。日本の一風景が確実に消え去るのである。
推進論者は、単に功利効率で改変を急ぐのではなく、9月と結びつく新しい風景を打ち立てる覚悟で制度設計に臨んでもらいたい。大学入試共通テストの混乱で煮え湯を飲まされ続けている現場から、性懲りも無くぼやいてみた。
9月入学は大学の都合
本紙五月号の論点整理で、「9月入学・始業」は利点少なく、課題の多さ・複雑さが明らかになった。菱村氏も臨時教育審議会当時を振り返り、「文部省、大蔵省、自治省をはじめ、PTA団体、私学団体、校長会などほとんどが9月入学に反対した。」と述懐、「これは今も変わるまい。」と論ずる(週刊教育資料8月24日号)。今回の導入見送りは当然の帰結なのである。
9月入学論は、多く大学の都合だ。「世界の大勢は秋期入学だから、それに合わせれば、諸外国との教員・学生の交流や帰国子女の受入れの円滑化が図られ、国際化が促進される」とするのが9月入学推進論者の主張。「しかし、すでに07年の省令改正で、大学の学年の始期・終期の決定は学長に委ねられており、各大学は自主的に9月入学を導入できる。国際化の隘路とはなっていない」という菱村氏の説明でほぼ片が付く。
半年の空白に奉仕活動を
一方、「大学秋入学を検討するなら、初等中等教育の改革にも広く連動するように仕組むべき」と語るのは中村学園大学の占部賢志教授。『致知』七月号に寄せた「春入学は譲れない 秋入学は大学に限る」という論考で、「私の先輩で福岡県の教育正常化に尽力された、元福岡県立高校長の志賀建一郎先生が、平成の初めの頃に三月高校卒業と大学秋入学のあいだの半年の空白に公共の奉仕活動の場を設け、その修養体験を入学条件の一つとして義務づけるという画期的な教育改革プランを発表された」と指摘する。
このプランが未だ「画期的」なのは、「奉仕活動」を高大接続の視点から捉え直すこ
とも可能だからだ。
現在SDGs等の「総合的な探究の時間」で取り組んでいる内容を、この半年間に反映させる。大学側が入学予定者に「自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現する」よう課し、レポート等で提出させる。その評価を単位認定の材料として扱う、のはどうだろう。
働き方改革の観点からも
生徒は既に高校を卒業しているため、この空白期間の指導は、「働き方改革」の観点から高校の教員ではなく、外部指導員が当たる。この外部指導員の運営は、シルバー人材の活用等、雇用対策の一環とする。
スクラップ・アンド・ビルドが進まず、授業時数の確保に追われている高校現場にとって、「総合的な探究の時間」は日々脅威だ。「また新たな黒船がやってきた。開国を迫る総探の趣旨は分かった。だが新たな取組がビルド・アンド・ビルドを助長する。総探の取扱いは本来、大学の領域では?」―これが現場の声だ。
9月入学は文化破壊
明治期に9月入学の時期があった、という声も聞く。結局4月入学が日本人の国民性に受け入れられた下地は、古来桜をこよなく愛する文化が連綿と続いているからだ。
九州大学の施光恒教授は、桜と卒入学式との結び付きを「世代を超え国民を結び付ける大切な記憶の絆、イメージの絆の一つ」であり、「国民の絆は、このような一見、些細な事柄、日常の事柄の積み重ねでできている」と強調する。
9月入学は「日本独自の教育文化や社会制度の秩序を壊しかねない」と断じる占部教授は、「日本の自然の摂理に背く教育制度など、さっさと引っ込めるべき」とにべもない。桜の持つ華やかさとはかなさが、出会いと別れの場面を演出する。桜を背にした風景は、いつしか平成世代の記憶の彼方にたゆたい、令和世代で死滅する。「9月入学」は文化破壊である。日本の一風景が確実に消え去るのである。
推進論者は、単に功利効率で改変を急ぐのではなく、9月と結びつく新しい風景を打ち立てる覚悟で制度設計に臨んでもらいたい。大学入試共通テストの混乱で煮え湯を飲まされ続けている現場から、性懲りも無くぼやいてみた。
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