福岡教育連盟は教育の正常化を目指し、日々教育活動に励む教職員の集まりです。

私たちの主張

Opinion

平成28年10月14日

教員評価の困難性をいかに乗り越えるか



教員評価に対する考え方


頑張っても頑張らなくても給料は同じである。この現実はもはや他の社会には受け入れられない。実際、教員(地方公務員)の給与体系は長期の休職や懲戒処分などがない限り、給料表の段階を確実に上っていくことができた。本連盟は頑張る教員の士気の向上のために適正な評価が必要と考え、自己の能力開発を目的としながらも、何らかの処遇に反映させることが必要と考えてきた。
 市川昭午氏の論考(教職研修2015 3月号「教員評価の困難性」)を参考に流れをまとめる。まず、平成12年12月の教育改革国民会議報告「教育を変える17の提案」では「教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる」ことを提案しており、顕著な効果を上げる教師に金銭的処遇、人事上の措置、表彰など努力に報いる一方で、低い評価が改善されない教員には厳しい措置を講じるべきと主張している。
 翌年の12月に閣議決定した「公務員制度改革大綱」は「現行の勤務評定制度に替え、能力評価と業績評価からなる新たな評価制度を導入する」とした。これを受けた中教審の答申「今後の教員免許制度の在り方について」(平成14年2月)では、「教員一人一人の能力や実績等が適正に評価され、それが処遇、研修に適切に結び付けられることが必要である」とし、都道府県教育委員会等に「新しい教員評価システムの導入に向け、早急に検討を開始する」よう求めている。その後、第2次安倍政権で再び強く主張されるようになり、官邸直轄の教育再生実行会議の第五次提言(平成26年7月)において同趣旨のことが提言されている。

教員評価の困難性と危険性


さて、上記のような「教育の成果はもっぱら教員の良否にかかっている」という教育観、教師観について市川氏は疑問を投げかけ、さらに公正な基準に基づく適正な評価は可能であるのかという点を問題にしている。そして教員評価の困難性を三点挙げている。まず、教科指導や生徒指導など評価項目ごとの優劣は認められるが、大多数が納得するような全体としての優劣を決めることが難しいということ、次に、教育は教員から生徒への一方的な働きかけではなく、教員と生徒の相互作用だということ、そして学校教育の成否は多分に学校外部の環境要因によって左右され、学校教育固有の影響力を確定するのは困難であるということを挙げ、協働作業として行われる学校教育において納得のいかない基準に基づく教員の相対評価は教職員集団の協働性を弱め、学校の教育力を低下させる危険があると指摘している。

教員自身の不安


現場の声はどうなっているのか。今回の制度化は本年4月に施行された改正地方公務員法によるもので、教師の評価というよりも公務員としての人事評価ととらえられている面がある。しかし、公正性の担保については不安を持つ者も少なからずいるのが事実だ。そもそも評価者一、二名が評価すべき職員数にかなりばらつきがあり、職員数が100名を越える職場などの場合、果たして可能なのかという点がある。評価が管理職の職務に過重なウェイトを占め、評価のための評価となってしまっては本末転倒である。また、高等学校の場合、学校によって求められる資質・能力がかなり違うので教員自身の人事異動とのタイミングにも多分に左右されよう。そして、一番大きいのは次の点であると思う。外からはわからないことだが、教員は評価項目とは直接の関係のない仕事を多く抱えており、しかもそれを皆が平等に請け負っているわけではないのだ。例えば、負担が問題となっている部活動指導においてもそうだが、大会の世話に従事している教員、各研究団体(任意のものもそうでないものもある)の事務局や世話をする人々、その他地域からの要請があり、それに応えるために時間を割く場合なども想定される。つまり、請け負う業務量自体が公平でない場合があり、現場で不満が出るとすればこの点ではないかと考える。


乗り越えるために


業務量の問題については逆に家庭の事情や自身の病気等、何らかの理由で負担を背負えない教員の不安にもつながるものであり、一筋縄にはいかない。しかし、評価項目にはなくとも誰かがやらねばならない業務がある。評価者は面談等で常に職員の抱えている課題に耳を傾け、信頼関係を築くことが大前提となろう。併せて、業務の適正化に向けた取組も待ったなしと言える。次に人材育成の観点である。福岡県の試行段階では採用11年目までは昇給への反映はない(3年目より勤勉手当への反映がある)。この期間に複数校の経験を積ませ、県立学校の職員であることの自覚を促すとともにしなやかに能力向上と協働性の育成に力を注ぐべきである。
教師を取り巻く社会的状況は厳しいが、子供に真摯に向き合うための環境整備を望まぬ者はいない。社会に開かれた学校教育とするためにこの制度を包括的に捉え、教育全体の改善となるよう生かしていきたいものである。