福岡教育連盟は教育の正常化を目指し、日々教育活動に励む教職員の集まりです。

私たちの主張

Opinion

平成25年11月1日

式年遷宮に見る日本人の精神

遷宮イヤーと呼ばれた平成25年

平成25年は、60年ぶりに伊勢神宮と出雲大社が遷宮を行った年である。出雲大社は概ね60年から70年の周期で遷宮を行っているため、両方が重なる年は極めて異例であり、長い歴史の中で今回が3回目である。20年前の式年遷宮では838万人が伊勢神宮に参拝したが、今年はその数をはるかに上回り、10月12日に伊勢神宮の参拝者数は1000万人を超えた。これは記録の残る明治28年以降初の出来事であり、年内には1300万人、単純計算すると日本の人口の10分の1を超える見通しである。いかに今年式年遷宮が注目を浴びたかを物語る数字である。

式年遷宮とは

天武天皇が神宮の式年遷宮の制度を立てられ、持統天皇の治世の690年に第1回の式年遷宮が執り行われた。その後1300年以上もの長きに渡り、20年毎に新しい御殿を造り大御神に旧殿から新殿に遷っていただくという営みが繰り返され、今年で62回目となる。
なぜ20年毎に遷宮が行われるかについては定説はない。平安時代の「太神宮諸雑事記」の天武天皇の条に「伊勢二所大神の宮の御遷宮のことは二十年に一度、まさに遷御せしめ奉るべし、立てて長例となせ」とあるが、具体的な理由は記されていない。伊勢神宮式年遷宮広報本部のホームページによると、20年が人生の一つの区切りと考えられること、技術伝承に合理的な年数であること、素木造りの神宮の社殿の尊厳さを保つのにふさわしい年数であることや、中国の暦学から伝わったという説も挙げられているが、どれも推測にすぎない。

式年遷宮の遅延・中断の危機

しかし、必ずしも20年毎に遷宮が行われたわけではなく、様々な危機を迎えている。第40回式年遷宮の5年後には応仁の乱が勃発し、朝廷は窮乏の淵にあり、123年間もの長きにわたり式年遷宮が行うことができなかった。その思いを後奈良天皇は、「いそのかみふるき茅萱の宮柱たてかふる世に逢はざらめやは」という御製に残されている。
文明開化の明治時代においては、木材不足とその確保のため、コンクリートで土台を固め、樹木の生育を待つ旨の上奏がなされた。しかし、明治天皇がこれを退け、コンクリートの使用は免れている。「いにしへの姿のままにあらためぬ神のやしろぞたふとかりける」の御製に、その思いが込められている。
また、昭和20年、敗戦後の占領政策の影響で式年遷宮は無期延期せざるを得ない状況であり、昭和24年に執り行われる予定であった式年遷宮は、異例とも言える天皇御発意による延期となった。しかし、それまでは国家の重儀として国費で行われていた式年遷宮が、伊勢神宮式年遷宮奉賛会発足を機に、一般の人々の奉賛により行われることとなった。そして予定より4年遅れた昭和28年に無事執り行われた。その翌年に昭和天皇は神宮を御参拝になられ、「伊勢の宮詣づる人の日にましてあとをたたぬがうれしかりけり」という歌をお詠みになっている。
このように、式年遷宮は幾度の危機を乗り越え、今日まで受け継がれている。

式年遷宮から学ぶ日本人の精神

伊勢神宮式年遷宮広報本部のホームページに次のような記載がある。「神宮には変わることのない永遠の姿があります。それは天照大御神が、ご鎮座されて以来2000年以上もの間変わることなくそこにある自然と、絶えることなく続く精神文化のあらわれです。この神宮の森を歩く時、森の清々しさと、そこにある生命力を誰もが感じます。昔と変わらない場所にいることで、2000年という時を越え、深い日本文化と自分がつながっている気持ちにもなれます。」この言葉通り、頭で考えるのではなく心で感じ取る日本文化が伊勢神宮には存在している。西行が伊勢神宮を参拝した時に詠んだと言われる「何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌に集約されている。
この背景には、脈々とそして粛々と先人達の教えを受け継いできた日本人のひたむきさがある。今年、外宮にある「せんぐう館」という資料館を訪れ、外宮正殿東側を原寸大で再現した模型も見学した。その際、正殿には五色の宝珠型の飾り居玉が取り付けられているが、その配置と色についての根拠はわかっていない。しかしそれらは変更されることなく、今日まで受け継がれている、との説明を受けた。明治時代のコンクリート補強論のように、時代の流れに合わせて都合の良さや便利の良さを優先する考えもあったが、伝統を重視し、今も変わらぬ姿で式年遷宮は行われている。式年遷宮を通じて伊勢神宮が日本の伝統文化を継承していくように、我々教師も、日本の良き歴史、伝統、文化を学び、継承できる人材育成に努めていくことが望まれる。