福岡教育連盟は教育の正常化を目指し、日々教育活動に励む教職員の集まりです。

福岡歴史探訪

History of Fukuoka

平成29年11月9日



筑豊炭田御三家筆頭の貝島炭礦

 明治の富国強兵策のもと、日本は急激な進展を遂げたが、その要因の一つに石炭エネルギーの成長がある。北九州が官営の八幡製鉄所中心に一大工業地帯として発展する基礎に筑豊炭田があり、その中で麻生家、安川・松本家と並び、御三家の筆頭と目された貝島炭礦の果たした役割は大きい。現在、トヨタ自動車九州が栄える宮若市だが、嘗て一寒村に過ぎなかった宮田地区をまとまりのある行政区として形成した原点は貝嶋炭礦が十を超える鉱区を集約した結果である。しかし、貝島太助を中心とした兄弟たちの創業までの道のりは苦難の連続であった。

若かりし頃

 貝島太助は弘化二年(一八四五年)、筑前国鞍手郡直方町の圓徳寺前にて永四郎・タネの長男として誕生。嘉永二年には次男文兵衛、嘉永五年には三男六太郎、安政三年には四男嘉蔵が生まれる。兄思いの弟三人は後に太助を補佐し、太助の成功のもととなった。家は貧しく、父永四郎は抗夫、野菜行商をしていたが事故により病弱となり、太助は父に従い炭坑作業を手伝う。八歳の頃と言われている。その後鍛冶屋奉公、寺の奉公に出るが、父の重病により、弟文兵衛とともに炭坑で働き、家計を稼ぐ。この時十八歳である。父の死後も二人で貝島家再興のために働くが、この頃太助は坑内の天井崩落の事故に遭い九死に一生を得る。心配する母親タネの願いもあり、一旦は綿打ち職人となるも夢あきらめられず、二十三歳の頃、再び炭鉱に戻る。時は明治維新の頃である。明治新政府の「鉱山解放令」(届け出により誰でも自由に石炭を掘ってよいという施策)により一回目の独立を果たすが、資金の少なさや技術不足によりあえなく失敗に終わる。

創業までの苦難と堅忍不抜の努力

 捲土重来を期す太助は二十六歳で伊乃子と結婚する。すぐに生まれた長男を病気で亡くし、意気消沈する太助であったが、石炭掘りの名人として知られた渡邊弥右衛門のすすめで出稼ぎに出る。筑豊各地の炭鉱を渡り歩き、小さな炭鉱では頭領となり、腕に磨きをかけた。三十二歳になった太助は二回目の独立を企図するが坑内の水の汲み上げに予想外の費用がかかり、またしても失敗となった。
 三度目の独立への鍵となるのが揚水機械の導入であった。明治九年、太助三十三歳の時である。直方切貫で採炭組合の一員となり、揚水機械を購入し、一時は成功するも次々と故障がおこり、大失敗に終わる。西南の役による軍需物資等の船舶輸送の活発化によって高騰していた炭価も暴落し、坑内の陥落も重なった結果であった。しかし初めて男兄弟四人そろっての仕事となり、絆が深まる時でもあった。
 

窮地に差しのべられる援助と抗夫からの信頼

 窮地に陥ると人との縁を得るのが太助の人生にとって常であった。三回目独立の失敗の直後に現れたのが陸軍指揮官で小倉鎮台に勤務していた帆足義方である。有望な坑区を案内した太助の知識、経験に感服した帆足は熱心に事業の助けを求めた。根負けした太助は組合員となって契約を結び、協力する。
明治十八年、帆足の事業も軌道に乗り、太助は四回目の独立を申し出た。鞍手郡宮田村の大之浦坑区を購入し、日夜労働に励む。これが貝島炭礦創業となった。着炭したものの資金を使い果たし、窮地に立たされるがこれを救ったのは筑豊で大きな炭鉱を持っていた久良地重敏であった。久良知の親友柏木勘八郎もともに大之浦炭鉱の出資者となるが、その縁が初代農商務大臣井上馨との縁につながり、井上の援助で窮地を脱する。久良知は一目で太助を信用し、自分の資金繰りを後回しにして太助のために保証人になり資金を調達したという。この後も太助は資金繰りに苦労するが明治二十四年、井上馨伯爵との出会いが一大転機となり、毛利公爵家からの借金借り入れを三井物産を通じて行う。日清戦争勃発で炭価が上がり、債務を完済し、坑区の買収を続け、明治三十五年の出炭量は九十万トンに達したという。三十七年には日露戦争も起こり、隆盛の一途を辿った。賃金の支払いができなくても他の炭坑に転ずるものがいない程、太助は抗夫の信頼を得ていたことも特筆すべきことであろう。

社会貢献

 ほとんど苦境の連続とも言える太助の人生だが、その中にあり、炭坑従業員の教育普及強化のため私立小学校五校を設立している。学制改革時の公立無償移管にあたっては多額の寄付金も提供するなど、教育、福祉、医療などにも多くの社会貢献をなしている。太助の志は今でも地域に根付いている。

※本稿の執筆にあたっては『貝島太助兄弟と創業の精神』福田康生著、『宮若市石炭産業遺産貝島炭礦』炭鉱遺産「貝島百合野山荘」市民の会(写真も同書より)、「福岡県郷土の先達」東京福岡県人会を参考にしました。